2011年6月7日火曜日

Seasons of Love


先日は、つい最近卒業した母校に行ってました。

京都は今出川。


やはり景色がいい。御所が隣っていう。少し歩けば、鴨川。出町柳。


通っていたときって、神戸の垂水から2時間かけてやったから、下宿生がうらやましいものでした。

所用を済ませて、恩師の関谷先生の研究室
という名のスタジオへ 笑


関谷先生こと、セッキーの愛称で親しまれている先生は、音大を卒業されて、社会人を経て、牧師になられた異色の経歴。
ご覧のように、スタジオには、あっ違う、研究室には何故か、ミキサーや、アコギや機材達が。笑

先生とタイミングよくお会いできて良かった。

3年仕事をして、28歳で一度仕事を辞めて、聖書科を教えるための教員免許の取得のために、大学院へ行った僕は普通の人なら学生ではない年齢で学生をした。

一度働いた上での、自分の意思とお金で行ったあの2年間はすごく、自分自身も意識もあって非常に充実したのでした。

そんな中、実は4月末に個人的にすごくショックなことがあり。
落ち込んでた時期があった。


そんなとき、関谷先生が、伝えてくれていた言葉の中で、印象に残っているものがふと心に浮かんだ。

それは。ちょっと長くなるけど、以下のようなことでした。

人間は神様じゃないから、全てをもちろん背負いきれない。
例えば、牧師先生が誰かの悩み、相談を聞いたりする。落ち込むその人を励まして、支えようとする。


でも、最終的にその人がどのような行動をとるのか。それはその人が決めること。
それを全て自分の責任だと思い込むことは、ある意味で高慢だ。
自分のせいで、誰かがこうなってしまったんだ。俺のせいだ、、、


と、思うことは、とても心が優しく、責任感が強いようでいて、一方で高慢でもある。

自分の力で、自分の励ましで、自分が寄り添うことで、100%誰でも救える、
と思い込んでいるからだと。

これは危険だ。究極的には、自分は無力であることを認識した上で、人と関わらなければ。もちろん、精一杯心を尽くしてその人を思いやり、愛して関わるべきで、その上でのことだけど。
このような趣旨のことばでした。


自分があるグループの人たちをケアする立場にいたときに、アドバイスをもらうそのような実習の授業だった。


このメッセージがあるときふと心に思い浮かんだんです。
すっごく支えになった。というか、こんなに支えになるなんて、当時は思っていなかった。
そんなものですね。


種が実をつけるのは時間がかかるもの。
師に、本当に感謝。


そんな自分を支えてくれた人は他にも沢山います。

一昨日は、高砂教会にて、いづみさんのCharity Liveがあり、初めて高砂に行きました。
高砂教会の人たちはすごく温かかったです。急激に仲良くなった。

いづみさんの歌声、ライブはいつも、ストレートにまっすぐにハートに突き刺さって、ギアを入れられる。

Seasons of Loveというテーマで、掲げられたこのコンサート。オープニングのSEに合わせたスライドに始まって、Endingまで、純粋な愛が貫かれていて、最初から泣きそうやったね。

というか、もう俺はここまでいったら泣き虫なのかもしれへんなー 笑
そして

朗読。


この詩、知ってはいたのだけど、朗読されるこの詩を聞くと
いかに読むのがエネルギーを要するのかということを思い知らされた
でも、伝えなきゃなって。思う。
そして、全身全霊を込めた朗読で、この詩を思い出させてくれた、いづみさんに感謝しつつ。

沢山の義援金も集まりました。
届け届け。思いと共に。