少しまえに GKB 47のことで少し前にニュースで報道がなされていました。
色んなことを考えさせられたのだけど、少し、気になったことがあって、書こうかなーて、ふと。
GKBやAKBのことを話題にしているのですが、本質的な部分は、この問題ではない方向に向かいそうです。
もし、仮に自殺をしてしまった本人であったり、その親族の方が、AKBの大ファンだったとしたら、あのGKB 47宣言を前向きに捉える、ということはあり得たのかな?
というふとした思いです。
人はこれを過剰な空想と笑いとばすかもしれない。
僕自身は正直に言えば、日本の多くの自殺対策に取り組む尊い働きをされているNPO団体の方の悲痛な思いと、同じ思いを少なからず最初は持ちました。
うーん。一番近い人を失ったことはないのだから、同じ思いを持っているなんて言い切れないか。でも、身近な人を自殺で失ってしなった喪失感、悲しみを、その大小はあれ、味わってしまった。そんな一人です。
GKB 47宣言の政府の取り組みは、確かに、中身がどうなんか、という点で僕個人は、クエスチョンマークというか、「え?」という開いた口がふさがらない。そんな感じでした。
でも、もしその自殺してしまった方がAKBの大ファンだったり、同じ親族の方がAKBの大ファンで、その歌やメッセージとか、頑張っている姿に、心底勇気をもらっていたりしたとしたら、、、、
遺族の方の中には、あのGKB47宣言を、前向きに捉えて、励まされた人もいるのかもしれない、とふと思った。
いや、ほんまに正直に言うと、自分の本音は、「そんな人おるはずないやん」でした。
けど、視点を変えたらそういう人もいないとも限らない。
いや、おるんちゃうかなと。
そして。 もしかしたら。
自殺対策の政府の役人さんの中には、もしかしたら御自身も大切な誰かを自殺で突然失ってしまい、いいようもない心の闇を体験して。
それで、その上で、誤解も覚悟の上で、反対意見の予想を見越した上で、このGKB47宣言を立案していたとしたら。
少しでも、この問題に目を向けて欲しいという。
純粋な思いから。
何でも動機が大切やと。日に日に痛感します。
一見するとあり得ないと思われる行為を、瞬時に判断して、裁くのではなく
その行為の奥にもしかしたら存在したかもしれない思いに、常に思いを馳せられるような姿勢を忘れないでいたい、と思ったのです。
もしかしたら、そこには、本当の意味の本当に、誰からも理解されない
それこそ。
少数、とさえ認識され得ない、自分たちは誰からも理解され得ないのだ、と苦しむ人たちがいるかもしれないから。
簡単に誤解して。人を簡単に裁かないようにしたい。さふ個人的に思ったのでした。
本当に人を誤解しないためには、ある種creativeな想像力が必要だと。
思ったのは。
ゆうてる 僕が、よく人を誤解してしまっているときが多いんじゃないかと
ふと。